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神戸地方裁判所 昭和52年(ワ)144号 判決 1980年2月06日

主文

1  被告は原告に対し、金八〇万円及び内金五〇万円につき昭和五一年九月一三日より完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用はこれを一〇分し、その三を原告、その余を被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金七七〇万円及び内金七〇〇万円に対する昭和五一年九月一三日より完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告は訴外奥本清之助(以下「清之助」という。)と、昭和一八年一二月九日、婚姻し、同人が、同五一年九月一二日、死亡するまで生活を共にしてきたもので、被告は神戸市北区山田町上谷上登り尾三二番地に精神病院として兵庫県立光風病院(以下「光風病院」という。)を設営のうえ、現に運営、管理しているものである。

2  昭和四五年頃、清之助は、近所の家の草花を引き抜いたり、表札や看板を取つて来るなどの異常行動のため、光風病院に入院し、約一年半ほど治療を受け、その後、退院したが、更に、昭和四八年六月頃、右病気が再発したため、再び、同病院に入院のうえ治療を受けることとなつた。しかし、清之助は暴力を振うことはなく、軽症であつて、右病気を除けば健康体である。

3  昭和五一年七月二四日、清之助が入院中の光風病院第七病棟に、訴外田中正治(以下「田中」という。)が強制収容されて来た。

田中は昭和四七、八年頃から被害妄想等にとりつかれ、自宅にこもつて就労せず、昭和五一年に入つてからは怒りつぽくなり、再三、母親に対して暴力を振うようになつたため、同人の家族により光風病院に入院させられたものであるが、入院後の、同年八月九日午後二時頃、同人の主治医である訴外藤井医師に対し、殺意をもつて同医師の背後から、椅子を振り上げて襲いかかり、同医師の頭部を殴打するという事件が発生し(以下「先行事件」という。)、これにより同人は、同月二〇日まで保護室に収容されたものの、その後、症状が落ち着いたとして保護室から出されていた。

ところが、同年九月一二日午前四時四五分頃、田中は清之助が就寝していた第七病棟一〇一号室に侵入し、まず牛乳びん等により清之助の後頭部等を数回以上殴打し、壊れた牛乳びんを凶器として清之助の後頭部、項部、顎部等を切りつけた後、所携の革バンドや手で清之助の頸部を締めつけ、よつて、その頃、同所において、同人を絞頸または扼頸による窒息により死亡するに至らしめた(以下「本件事故」ないし、「本件犯行」という。)。<以下、事実省略>

理由

一請求原因1項の事実及び清之助が原告主張日時以降二度目の入院を続けたこと、田中が原告主張日時に入院し、先行事件を起こし、ついで、原告主張の日時、清之助を殺害(窒息死)したことの各事実はいずれも当事者間に争がない。

二原告は先づ、被告に対し国家賠償法二条に基づく責任があるとして光風病院の設置および管理上の瑕疵を主張するところ、右法条にいう公の営造物とは行政主体により公の目的に供用される有体物ないし物的設備をいい、人格機構や人的措置は含まれないと解するのが相当である。

光風病院が昭和一二年六月に開設された病院であること、男子患者収容病棟としては第一、第七、第八病棟があり、うち第七病棟は新患観察病棟(入院新患病棟)であつて、種々雑多な症状の患者が入院していること、同病棟は二階建、ベット数全一一二床(本件事故発生時点では一〇八床使用中)であることは、いずれも、当事者間に争がなく、証人藤井洌の証言(以下「藤井証言」という)によれば第七病棟は老朽化していたことが認められるが、これら事実の外に光風病院の物的設備としての設置および管理上の瑕疵により本件事故が発生したものと認め得るに足る証拠は他に存しない。原告は光風病院の設置および管理上の瑕疵の内容として、本件事故の発生した第七病棟の看護単位、勤務体制の不備をも主張するが、右は、光風病院が精神病院の人的設備の面において、精神病患者の入院中における不慮の事故による危険を防止する義務に違背することを指すものと考えられるので、つぎに判断する。よつて国家賠償法二条に基づく原告の主張は理由がない。

三精神病院は多数の精神病患者を入院させているが、精神病患者は、入院中、時として、常軌を逸した行動に出ることがあつて、そのため、自殺したり、或いは他の患者もしくはその他の者に対し不慮の災害をもたらすことが予想されるので、病院側としてはかかる事故を起さないようにこれを防止する義務あるものといわなければならない。原告は、この点について、さきに述べたように、光風病院の第七病棟における看護単位、勤務体制の不備を主張する。

ところで同病棟の看護人は男子二八名、女子四名、合計三二名であつて、うち正看護士が二名、他は准看護士、看護助手であること、同病棟の看護体制は一、二階の全患者に対する、いわゆる、大看護単位であり、かつ、いわゆる変則二交替勤務体制であるため、夜勤が一五時間を超えていたこと、本件事故発生の数年前より入院病棟を二分し、看護単位もそれに伴つて二単位とする意見や病院建築物の改革案が出ていたこと、第七病棟において昭和五一年度中に自殺一件の他、窓ガラス破損等器物損壊程度の事故が少なからず発生していたこと、以上の各事実はいずれも当事者間に争がなく、藤井証言によれば、第七病棟のベット数が他の公立病院に比し看護能力を過大に上回ること、夜勤が一五時間を超えることが、看護体制上、問題があるといわれていること、および光風病院における看護水準は低く、院内において安易な准看護士養成を行なつていた事実が認められ、一方、証人石田卓の証言(以下「石田証言」という)によれば「被告の反論1項(一)」の事実も認められ、これら認定事実を覆えすに足りる証拠はない。

医療法(昭和二三年法律第二〇五号)二一条一項一号、医療法施行規則(昭和二三年度厚令第五〇号)一九条一項四号によれば病院は省令を以て定める員数の看護婦その他の従業員を置くことを義務付けられており、右看護婦の数として「入院患者の数が四又はその端数を増すごとに一」と定められている。そうだとすると前記認定事実に照らし、光風病院および第七病棟における看護人の数は、一応、法令の基準を満たしてはいるものの、正看護士が少数である他、その他精神病院として精神病患者に対する看護ないし治療をなし、その機能を十全に発揮するには看護体制にかなり不満足な面があることは否定し難く、このような状況が後記のとおり夜勤看護者らの本件事故当夜の看護業務懈怠の温床ともなつていたのではないかとも疑われる。しかし、この点を捉えて直ちに被告の光風病院における看護単位および勤務体制がさきに述べた危険防止業務に違背するものであつたとするのは困難であるうえ、かかる看護単位、勤務体制と本件事故との間に相当因果関係があるものとは考えられない。

四つぎに、光風病院被用者らの義務違背について検討する。<証拠>によればつぎの事実が認められる。

1  清之助(明治二四年五月二七日生)は、昭和四三年一一月八日、老年痴呆症にて光風病院に措置入院(精神衛生法二九条)し、昭和四七年九月三〇日、家庭寛解の措置がとられたものの、昭和四八年六月二〇日、再び、老年精神病により同病院に同意入院(同法三三条)し、本件事故当時、第七病棟一階一〇一号室(和室、収容患者四名)に単独で入室していた。

2  田中(昭和二三年六月一六日生)は、昭和四六年頃から被毒妄想(家族から毒を飲まされていると妄想する)に取りつかれて、昭和五一年七月二四日、同病院に警察官の協力を得て同意入院の形で護送入院し、当時、精神衰弱状態(精神分裂病の疑)で興奮状態にあり、暴れたりしたので、一応、第七病棟保護室(一名収容、二重ドア、各ドアに施錠あり)に収容された。田中の場合は本人の不同意に拘らず、保護者(兄)が病院に本人を連れてきたために、田中は右入院の結果、却つて反抗心を強くしていたが、その後、同人の興奮も治まつてきたので、同月二六日、同病棟一階一〇四号室(洋室、収容患者四名、前記一〇一号室より東へ三つ目で一〇メートルの距離)に転室させられた。同年八月九日午前、田中の兄が田中に面会に来たが、そのために、田中は、却つて、感情を刺激され、兄に対し自分を入院させたことを責め、兄が帰つた後、主治医の藤井医師に外出許可を申出たが許されず、同日午後、藤井医師が他の患者と碁をうつている所へ来て、何かを訴えたが返事を得られなかつたところ、田中は矢庭に傍の椅子を振上げて、「こいつを殺さんと」と言いながら同医師の背後から三回にわたつて同医師を殴打したが、他の患者にとめられ、同医師は後頭部小血腫、右手背打撲症の軽傷を負うた(先行事件)。このため、田中は、再び、保護室に収容され、主治医も石田卓医師に替わり、同医師は同年八月一一日より同月二〇日まで、田中を診察し、看護人に対しても田中を特に注意を要する患者として看護、看視するよう指示した。田中は先行事件直後、家族に対する不信感、憎悪感を強くし、妄想にとりつかれていたが、その後、石田医師の質問に対して藤井医師を殴つたことに陳謝の旨を答え、問答の中に好転のきざしが窺われるとして、同月二〇日、保護室を出されて前記一〇四号室に移された。しかし、その後も、田中に対する看護、看視の指示がなされていた(本件事故当時の田中の主治医が石田卓であり、勤務していた看護人らは看護士松嶋正輝、准看護士井上静夫、同恋水十三夫であることは当事者間に争がない)。

3  本件事故が発生した同年九月一一日の夜から翌一二日未明までの第七病棟夜間看護勤務者は四名(井上静夫、松嶋正輝、東茂、恋水十三夫)、外に宿直勤務者は一名(訴外山本護)であり、午前零時から一時間三〇分単位で看護人の一人が交替で仮眠を許され、他の三名のうち、原則として二名が病棟内の巡回をすることと定められ、二日午前四時三〇分からは東が仮眠に入り、他の三名が勤務し、井上は一階東詰所、松嶋は診察室(東詰所の西隣室)に居たところ、同日午前四時五〇分頃、階下東棟病室付近で変つた物音を聞きつけた。松嶋、井上両看護人が右東詰所から一五メートル東へ距つた一階一〇一号室に赴いたところ、そこに田中が「やつてしもうた」ときつい表情で立つており、同室内では清之助が後頭部から血を出し、倒れており、首は茶色革バンドで絞められていた。

4  清之助の創傷部位、形状、程度は別表(二)記載のとおりである。そして同表①ないし④、⑧、⑫、⑲ないし、、の傷は、鋭器によるもので、体表面に米粒大のガラス片が数個附着していたことから、ガラス片により生じたと考えるのが妥当で、⑲ないし、、の上下肢伸側の切創は防禦創と考えられ、⑨〜⑪の頸部皮膚損傷は、何らかの索条物(例えば、革ベルト等)によつて生じたものと考えられ、右防禦創の存在から、まず被害者はガラス製の物体により数回以上殴打され、その壊れた部分で切られるなどした後に、頸部を圧迫され、窒息死したものと考えられる(鑑定所見)。

5  本件事故直後の一〇一号室の状態は、おおよそ別紙図面のとおりで、土間の北東角から東北方へ二四センチメートルに血糊(八五×三七センチメートル)がべつとりと付着し、その量は牛乳びん一本分程度と見受けられ、土間東側の畳の上にガラスの破片が散乱し、病室の北側中央ドア東端から一五センチメートルの地点に牛乳びんの口の部分の破片が散乱していた。清之助の遺体は前記の血糊の位置から、それぞれ、中心部において約九六センチメートル東に移動した模様であつた(検証結果)。

五ところで<証拠>中には井上、松嶋両看護人は、本件事故のあつた当日午前四時五〇分頃、チャリンというような音をきいて、同時に、室を飛出したところ、既に、田中が本件犯行をなし終えていた旨の記載および供述がある。しかしながら、前記認定の鑑定所見および検証結果に照らし、本件事故の態様は、田中が自己の病室一〇四号室を出て、途中の経路は不明なるも、西へ三つ目の一〇一号室に入り、先づ、牛乳びんで清之助を数回殴打し、また、その壊れた部分で十数回切りつけ、清之助もこれに抵抗したこと、その後に、田中が清之助の頸部を革バンドで締めつけ、また、遺体が発見された位置まで引摺つたものと考えられる。本件事故を右のように考えてみると田中は自己の病室を出て清之助の病室まで歩き、右病室に入つた後、清之助の切創数に相当する回数だけ攻撃が繰返され、その間、清之助の反抗もあつてかなりの物音或いは悲鳴も起つたものと推察される。しかも、井上、松嶋両看護人の居た東詰所又は診察室は本件事故のあつた一〇一号室からは一五メートル程しか離れておらず、時間的にも未明であつて周囲には静かさが保たれていて、右のような物音、気配が妨げられる状態にはなかつたものということができる。更に、<証拠>中には、本件事故発生前の午前四時三〇分頃の巡回は、本来西病棟担当の「東」か「単独で」全病棟の巡回をなして異状なき旨確認し、その旨の報告を前記松嶋及び井上に対してなした後、同人は仮眠に入つた、井上、松嶋両看護人が物音を聞いて「走り出たところ、一〇一号室の入口に田中が立つていて」清之助が「うつぶせになつていた」旨の記載があるけれども、一方、井上証言中には、午前四時三〇分頃、「前記松嶋と井上が」巡回をして異常のない旨を確認した、井上、松嶋両看護人は物音を聞いて、直ちに、病棟の方へ入り、「まず、ディ・ルーム(広間)の方へ行き、ずつと各病室を一々見て歩いた」ところ、一〇一号室の前か中かに田中が立つていた(東詰所、診療室から東棟の方へ行けば最初の病室が一〇一号室であることに照らしても右供述は理解し難い)、清之助は一〇一号室内で掛布団を胸の辺まで被つて寝ていた(「仰むけの状態」と窺える)旨の供述があつて、これら供述部分と前記記載部分と対比すれば、相互に矛盾していることが明らかであつて、これらの証拠によるも、看護人の本件事故発生直前の巡回、事故発生後の動行は明らかでない。このようにみてくると、<証拠>中本件事故直前に井上、松嶋両看護人が夜間勤務中のところ、チャリンというような物音を聞き付けて、直ちに、居た部屋を飛出して一〇一号室にかけつけたところ、既に、田中が本件犯行をなし終えていた旨の記載および供述部分は容易に信じられない。他に前記第四項認定事実に反する証拠はない。

六光風病院が精神病院としての性質上、入院中の患者の異常行動による不慮の事故を起さないようにこれを未然に防止する義務のあることはさきに述べたとおりであつて、治療を担当する医師、右治療を補佐し、看護、看視に当る看護人らは、それぞれの立場において患者の動静に注意し、事故が発生しないように配慮する注意義務のあることはいうまでもない。これを本件についてみれば前記第三項認定事実によれば田中は被毒妄想により不本意な形で光風病院に入院し、精神分裂病の疑ありと診断され、一時、好転したかに見えたが、半月程後に、再び、感情を刺激され、加えて主治医に対し自己の希望が容れられなかつたことから殺意を示しながら同医師の背後から椅子を振上げて攻撃し(先行事件)、爾後、特に注意を要する患者として看護、看視を指示されていたもので、その後、好転のきざしが窺われるとして保護室を出されたものの前記指示は続けられていたところである。右のとおり、田中は入院当時よりその精神障害の程度は顕著であり、一時、好転しながら僅かの刺激により思わぬ対象に対し殺意を以て攻撃を加える挙に出ることが明らかとなつたのである。本件事故はこのような推移を経て、先行事件から一ケ月余りの後に発生したものであり、たとえ、病院の夜間勤務中に発生したものとはいえ、少くとも、三名の夜間勤務者が勤務していたのであり、本件事故発生時に右夜間勤務者の居た場所と田中の病室および清之助の病室(本件事故発生の場所)との距離、配置関係、本件事故の態様および本件事故発生時の環境(静けさ、気配)等を考え併せるならば、田中が清之助に対して牛乳びんで攻撃を開始した近い時点で右夜間勤務者らにおいて何らかの物音に気付き得たものと考えられ、右時点で本件事故現場へ急行していたならば、少くとも、その後の田中の攻撃を回避し、清之助の死亡の結果を免れ得たことは明らかである。しかるに本件事故発生時における夜間勤務者において本件事故の発生に気付くのが遅れ、結局、清之助の死亡を阻止し得なかつたものということができ、たとえ、看護単位、勤務体制の面で人的施設の不十分なることを考慮に入れても、右夜間勤務者の看護、看視は十分でなく、本件事故の発生を未然に防止すべき注意義務をつくさなかつた過失あるものといわなければならない。そうだとすれば被告は右夜間勤務者の使用者として本件事故による損害賠償義務を免れない。

七前記認定中の、清之助の生年月日に徴し、同人は本件事故当時八五歳三ケ月の高令であつたことが明らかである。そうして<証拠>によれば、原告は明治三〇年三月四日生れであること、清之助と原告との間に子供はなく、清之助の相続人は原告以外には同人の兄弟姉妹とその子供であること、清之助は光風病院に入院した当時、原告との二人暮しで両名とも無職であつたこと、右入院に際し、清之助の精神症状がある程度軽快すれば退院するという条件であつたが、現在においては原告自身、身体的に、一人で生活することが困難であつて、清之助を引取り世話をすることは到底、不可能な状態であつて、病院側からの引取要請を拒否したことが認められる。これらの事実の外さきに示した諸般の事情を考慮して判断すれば清之助自身の慰藉料として金六〇万円、原告固有の慰藉料として金一〇万円を相当と認め、原告は清之助の慰藉料の相続分として三分の二に相当する金四〇万円を相続するものとする。

また、本件における弁護士費用は金三〇万円が相当である。<以下、省略>

(中村捷三 住田金夫 池田辰夫)

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